明治初期の紫雲寺のようす

紫雲寺だより27号に「明治初期のわが村」のようすが記載されています。これは「英国の婦人イザベラ・バードの「日本奥地紀行」の本文を一部抜粋したものです。興味のある方は、是非「日本奥地紀行」を手に取ってご覧ください。Amazonで手に入れることができます。


イザベラ・バードと日本奥地紀行

 

作者 イザベラ・バード(Isabella L.Bird)

:1831-1904年 英国生まれ。

 

当時47歳。 

イザベラ・バードは、1831年に英国ヨークシアの牧師の長女として生まれました。幼い頃から病弱でしたが、彼女は健康のため転地療養と称して多くの外国旅行を志し、1854年のカナダ・アメリカ旅行に始まり、オーストラリア・ニュージーランド・ハワイ・騎乗によるロッキー山脈越えを敢行。イザベラは因習にとらわれない自由闊達な女性でした。

 

日本奥地紀行

 イザベラ・バードが47歳(1878年/明治11年)の時に、開港したばかりの横浜を訪れ、通訳と身の回りの世話係をする日本の青年一人を連れて、東京を起点に日光から新潟へ抜け、東北地方を経由し北海道に渡り、函館、室蘭、白老を経て、佐留太から奥地の平取アイヌ部落を訪れた探検記。

 

本書は明治期の英国人の視点を通して、本国の妹へ宛てた手紙の形式で、当時の日本を生々しく伝えている。"Unbeaten Tracks in Japan"(直訳すると「日本における人跡未踏の道」)として刊行された。当時の日本を知るうえで貴重な文献である。

 




日本奥地紀行(抜粋)

【7月12日】

私が新潟を去るとき、大勢の親切そうな群衆が運河の岸までついてきた。

外国の婦人と紳士、二人の金髪の子ども、長い毛をした外国の犬がお供をしてこなければ、人目を避けることもできたであろう。

土地の人たちはその二人の子どもを背にのせてきた。ファイソン夫妻は、私に別れを告げるために、運河のはずれまで歩いてきた。平底帆船が信濃川の広くて渦巻く本流の中に出たとき、私はものすごく淋しい気持ちに襲われた。

私たちの船は、信濃川を横切り、狭くて築堤をした新川を遡った。

狭くて、汚れた加治川では、胸がむかむかさせるような肥船が次から次へ続いてきて、大変手間どった。どこまでも続く西瓜やきゅうりの畑、あるいは奇妙な河の上の風景に感嘆した。船は棹を使って六時間ほど難航した後に木崎に着いた。正確に10マイルきたことになる。

それから3台の人力車を走らせて、20マイル進んだ。

一里につき4銭5厘という安い料金であった。ある場所では道路に板戸をして閉鎖してあったが、旅行者が外国人であることを村長に説明してやると、ていねいに通行を許可してくれた。

駅逓係がこんなに遠くまで私についてきて、私が無事に旅行できるように取りはからってくれたからである。

今日の旅行では街道はどこも人家がかなり多かった。

農業を営む村が長く続いていて、築地、笠柳、真野、真理などは清潔な部落であった。農家は道路から見えないように、竹の垣根をしてあるところが多かった。

全体として楽しげな地方であり、人々は着物をほとんど身に着けていないが、貧乏そうにも見えなかったし、非常に不潔な感じもしなかった。

土はとても軽くて、砂地であった。事実、松の木だけしか生えていない砂地があった。

砂山には、細長いスコットランド樅に似た松林だけであった。

しかし、丘陵と丘陵との間の低地は、菜園のように肥料を十分に施して耕作してあって、えんどうのように這わせたきゅうり、水瓜、南瓜、里芋、甘藷、とうもろこし、茶、鬼百合、大豆、玉葱などすばらしい作物をつくっていた。

りんごや梨の広々とした果樹園は、八フィートの高さの棚に横に這わせてあり、珍しい風景となっていた。

東方には山頂まで森林におおわれた山脈がはしっており、私たちはその山のほうに一日中向かって進んで行ったが、樹木もそれほど多くならず、米田も少なく、空気は乾燥していて、気分が休まらなかった。

 

(中略)

 

築地という非常にさっぱりした村で人力車を乗り換えて、ここから砂利道をがたがた揺られながら、中条というかなりの町に向かった。

 

平凡社版:高梨健吉訳